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「抵抗」の在り方
2008-03-21 Fri 00:00
小飼さんからトラックバックが返ってきたんだけど

しかし、それと同時にジジェクに限らず現代における哲学者なるものの軽さが改めて気になった。

現代における哲学には、批判はあっても提案が見当たらないのだ。

大学で教鞭をとりサラリーを受け取る現代の哲学者たちは、あらゆることを論破できる存在に感じられる。はてブにも「ジジェクなら二行で論破できる」という記述があった。多分その通りなのだろう。

しかし、「ではいかがいたしましょうか」という問いを発すると、彼らはとたんに口をつぐむのだ。右も左も関係なく。



出たよ!リベラルお約束の「対案を出せ」論法!アレですか、「資本主義がイヤなら、それに対抗する提案を述べよ」ってことですか。社会主義も共産主義も失敗して、実質資本制に対するオルタナティブなどないのだから、それに対する批判もまた空虚である、と。いやはや、完璧にテンプレ通りの「資本家」の恫喝ではありませんか。この人は私が前回のエントリーの最後で、他ならぬジジェクによる「エリートの嘲笑的なあてこすりを拒絶せよ」という発言を引用していたことを読んでないのでしょうか。まあ真面目な話、読まずにこのエントリーを書いたのだとしても驚くには値しませんけど。何ならもう一回引用しましょうか?

flapjackのbookmarks - スラヴォイ・ジジェク on 欧州憲法否決

そういうわけで、政治的エリート、メディアエリートではない人々にとって、この否決は希望の表現である。政治はまだ生きているという希望、なにがあたらしいヨーロッパであるべきなのかについての議論はまだ続けられるという希望だ。だからこそ、われわれ左翼 (we on the left)は、ノーとわれわれがいうことで、ネオ・ファシスト連中と同じ陣営にたつことになるという「リベラル」な人―広くいえば左翼よりだがジジェクのいう左翼とは区別される―の嘲笑的なあてこすりを拒絶しなければならない。あらたなポピュリスト右翼と左翼が共有しているのはただひとつ、すなわち、まともな政治はまだ生きているということだけだ。

 ノーということには、積極的な選択がある。選択できることそのことを選択すること、専門家の知識を追認するか、「不合理な」未熟さをさらけだすか、という選択肢しか示さない新たなエリートのゆすりを拒否することだ。われわれのノーは、どんなヨーロッパを我々が望むかのまともな政治的議論を始めるという積極的な決断なのだ。



あのですね、私もジジェクも「資本制に対抗する」「具体的な」提案の話なんて、貴方の言うとおり一言も述べていないし、そんなものを言いたいと思って書いているのでもないのですよ。そうじゃあなく、私もあの本のジジェク(とは言っても、ジジェクの真意は私にも図りかねるところがありますが)も、言いたいのは原理・原則の話であって、まさしく、もはや「政治的イデオロギー」など存在せず、「只管前進する資本主義」と、その箱庭に住まう「動物化した人間」、さらにそれを管理する「環境管理型権力」に全てが規定されていくとする、貴方や東浩紀のような「リベラルエリート」の世界観に、はっきりと「NO」を突きつけなくてはいけない、「政治的イデオロギー」はまだ死んでいない、という「原理」を述べているんです。

R(岡崎玲子氏) 新しい社会運動などに身を投じる衝動を、抑えなければならないと強調されているのはなぜですか。

Z(ジジェク) 勿論は私は左派ですから、提案しているのは、「即時に行動を起こさなければならない」という強迫観念に屈してはならないということです。理論に費やす時間は無い、人が餓死しているのだから…といったものです。それを疑ってかかる理由は、これが支配的な資本主義的イデオロギーの一部を構成するようになっているからです。

R メディアによっても奨励されていますね。

Z それだけではありません。最近もビル・ゲイツが述べていました。「未だに人々が下痢や結核で亡くなっているのにコンピュータがなんだというのだ」。彼らは、こうした言葉を繰り返しています。「我々が裕福な西側の社会に生きている間も、飢えて、不必要に死んでいく人がいることを忘れてはならない」。きっとこれは、イデオロギーに組み込まれているのでしょう。特に我慢できないのが、感情的な表現によって脅迫に置き換える手法です。「私が一語一語を発する間にも、アフリカで十名の子供が死んでいるのを知っているか?一文につき一人の女性がレイプされている」。当然これは事実ですが、我々が間をおいて熟考することを防ぐのが真の機能です。一歩下がって、頭を使わなければなりません。
何でもよいから動かなければならないという衝動が支配的イデオロギーの一環をなしているのは、まさに犠牲となるのが、我々が距離をとって状況を把握し思考を働かせる時間であるために他なりません。そのため、人道援助というものは…最近、殆どの媒体では書き換えられて公表されるほど辛辣なエッセイを発表しました。題名は様々ですが、オリジナルは「ポルト・ダボス」について触れています。皮肉な形で、ポルト・アレグレ(世界社会フォーラム)とダボス(世界経済フォーラム)を融合させるものです。もはや一体化していますから。強力な資本家達が、貧困者に救いの手を差し伸べたいと気を揉んでいるのです。今日における典型的な資本家は、午前中に何百万ドルもの金を稼ぎ、午後に再配分するのです。こうした悪循環から脱却しなければなりません。「オーマイガッド、早く実行に移さなければ」という緊急事態の文化は、信用ならないのです。

R 根本的な問題を解決するどころか、悪化させることになりかねませんね。

Z 一歩下がって反省する上で、理論が必要なのです。私が好きなのは…貴方は若すぎて記憶しているはずがありませんが、三、四十年前にアイルランドは初の世俗的な首相、ギャレット・フィッツジェラルドを迎えました。友人に聞いたところによると、彼は素晴らしい言葉を残しています。議会で繰り広げられた討論の中で、実践的には非常に効率のよい提案を一人が行いました。普段から理論家に対しては、「そんな抽象論は、理論には適しているかもしれないが、実践する上では役立たずだ」と言われますね。彼はどんな発言をしたと思いますか?「この法律は実践には即しているかもしれないが、理論の基準には達していない」。こうした態度が求められているのです。結果を素早くもたらす解決策を欲する衝動を、抑制しなければなりません。
(中略)
正しい道は、計画を講じることです。とりわけ今の時代…日本でも同様だと思いますが、ヨーロッパやアメリカの各地では、大学が自分だけの世界に引きこもっている、もっと繋がっていかなければならない、実世界の経済的その他の課題に対して解決策をもたらさなければいけないと主張されています。これは大きな災いを引き起こすでしょう。経験則からでさえ、次のことが言えるでしょう。よくよく吟味すれば、真の偉大な発明とは意図されたものではなく、副産物だった。知識の次元において何かを創造するためには、目的を持っていては駄目なのです。大きな発明は、誘惑やビジネスと少し似通っています。おおっぴらに行なってしまえば愚か者に映ってしまうし、うまくいかないのです。



ちなみに以上の文章は、「人権と国家」の冒頭、12から15ページに書かれている内容を抜粋したものである。まあ、ここで批判されている「社会運動家」や「慈善家」などとは違って、小飼氏は具体的な「慈善事業」さえ行なわないままに、資本制の問題は資本制の発達によって全て解決できるなどと言っているわけだから、余計に程度が低いわけだが。

要するに、思想の左右問わず、現代の「リベラルな」グローバル資本主義に何らかの形で対抗していこう、と思ったのなら、その「実践」がそれに取り込まれるような形のものであってはならない、ということだ(日本の能天気な「サヨク」には未だにそれを理解しない人が多いが)。そうではなく、人々の世界に対する認知地図を書き換え、「政治」の理論化を推し進めるようなものでなければならない。そうしなくては、何一つとして根本的な「問題の解決」の役には立たないということなのだ。

しかし本書と「電波男」は、少なくとも異なる点が二点ある。一つ。「電波男」の方が同じことをずっと平易に述べている。そしてもう一つ、「電波男」には具体的的な提案がある。「ニジゲンへの移住」だ。

電波男 P.392
妄想をつきぬけて歓喜に至れ



それが正しいかどうかはさておき、それゆえに私には本田透の方がスラヴォイ・ジジェクよりずっと誠実に感じられるのだ。誠実の提供は哲学者の仕事にあらず、と言われればそれまでなのだが、さすれば私としては哲学者に頼む仕事はありません、と答えるしかないのだ。



小飼氏の言う「誠実さ」とやらが、単に既存の資本主義イデオロギーに与するだけのことを言っているなら、ジジェクにせよラカンにせよデリダにせよサイードにせよ、彼らは全く「誠実さ」のないセンセイ達だと言えるだろうし、むしろそれを誇りに思うことが出来るだろうね。しかしさあ、仮にも(私の書き様があまりに未熟で下手だったとはいえ)自分の依拠する「リベラル資本主義」そのものに対する疑義を示した文章に対して、「こうしたものならば良い」として提示するのが、「動物的消費行動」を奨励する「美少女ゲーム」に耽溺する男の姿、ですか。なんというか、惚けてるのでなければケンカ売ってると解釈してもいいんでしょうかね。まあ小飼さんに言われるまでもなく、私は自身の「政治性」に賭けて、「誠実でない」態度をこれからもとっていきたいと思いますけど。なんか強引に話を終わらせようとしてるようにも見える書き様なのだが、俺は「じゃあね」なんて言わないぜ!「またね」って言うぜフルボッコにしてやんよー!!!!

というわけで、元祖「アニメ美少女」であるナウシカの漫画版での名台詞を引用して〆にしておきます。宮崎駿も、昔に比べれば「アカを脱して」「丸くなった」と言われてますけども、彼が「皆オタクになろう!「電波男」最高!」などと言い出したら、世のアニメファンは全員発狂死するのではないでしょうか。いや私は彼のアニメにはさしたる思い入れもないんですけどね。

お前は亡ぼす予定の者達をあくまであざむくつもりか!!

お前が知と技をいくらかかえていても
世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか!

私達の身体が人工で作り変えられていても
私達の生命は私達のものだ
生命は生命の力で生きている

その朝が来るなら
私達はその朝にむかって生きよう

私達は血を吐きつつ
くり返しくり返し
その朝をこえてとぶ鳥だ!!

生きることは変わることだ
王蟲も粘菌も
草木も人間も
変わっていくだろう
腐海も共に生きるだろう

だがお前は変われない
組み込まれた予定があるだけだ
死を否定しているから……

真実を語れ!

私達はお前を必要としない!



※以下追記
多数のブックマークなど、ありがとうございます。本稿の補足(と言ってしまうのは失礼かも知れませんが)になりそうな文章がいろいろあったので、ご紹介します。

flurryのとこ。 - ジャック・バウアーと緊急時の倫理
flurryのとこ。 - 略奪や強姦を行っていると想定される誰か――ニューオーリンズにおける現実とファンタジー
flurryのとこ。 - Slavoj Zizek ”You May!”

flurryさんによるジジェクのエッセイの翻訳です。二番目の文章は「人権と国家」に掲載の試論の元ネタ、三番目は精神分析学的な内容です。どれも興味深いので、皆さん読みましょう。

これが我らの怨敵よ - アケガタ
坂のある非風景 20060416 希望の思想

私が本エントリーを書く上で念頭にあった、それぞれTezさんfreezingさんによるジジェク評です。freezingさんの「ジジェク・ノート」シリーズはとても良いので、皆さん読みましょう。

ナウシカあるいは旅するユートピア ――ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿――

hokusyuさんのご紹介で知った、明治学院大教授稲葉振一郎さんによる「ナウシカ」評です。ナウシカを通してユートピア批評について論じられています。

東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ
東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2
論座三月号の東浩紀・森暢平対談について - 研幾堂の日記

本エントリーでは、批評家の東浩紀氏への批判を(割と唐突な形で)行なってしまいましたが、その際念頭にあったのが上記の文章です。いずれにも、現代の日本型リベラルの問題点が象徴的に現れているように思います。
サブカル批評家としての東氏は、実は割と積極的に好きだったりするんですが(いわゆる「社会学的な読み」への正面切った批判とか、率直に素晴らしいと思う)、社会学者としての彼はむしろ、「文芸」的視点から社会を語ることの限界を色々な面で見せてしまっているように思います。

最後に、こちらのreponさんのブックマークコメントについて。

その通りで、在り方が問題。その前提を問題視せずに弾氏は踏み越えてしまう。その問題構成を解体し、手前でためらうことこそ重要なのに。ジジェクが左翼でマルキシストでありマルクス主義批判者なのを知って欲しい



「手前でためらうこと」が確かに重要なのはわかるのですが、むしろそうした「ためらい」の作法が、リベラル相対主義者的な「ためらうこと自体の傲慢さ」を形成してしまう嫌いはないでしょうか(以前に某フロムダ氏が示していたのも、まさにそうした類の傲慢さでしょう)。ジジェクは「引きこもり的な大学教授」に対するリベラル派の脅迫を批判しますが、だからと言って「象牙の塔に引きこもる」事が許される訳ではありません(だからこそジジェクは積極的に発言している)。
かと言って、「手前でためらう」こと一切抜きの態度は、まさに原理主義的な「マッチョ」や「テロリズム」にしか帰着しません。まあそれでいい人はそれでいいのでしょうけど、そんなアホっぽいのは嫌だ、というのならば、恐らく必要になるのは「ためらいながら決断する」ようなアクロバットに自らをコミットすることなのでしょう。それについて迷い、考えながらも「断言」するような態度です。
言うなれば、ムッソリーニの発言として外山恒一氏が引用している「(政治的立場さえ)時と場所と状況に応じて」「思いのままに使い分ける」ような態度でしょうか。昨日リベラルでも、明日はネット右翼になってしまってもいいのです。「風見鶏」とは違う形でそうした「無茶」を実行した時、初めて有益な何かが実現するのではないかなあ、と。極めて難しいことではありますが…。
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