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2008-03-21 Fri 00:00
小飼さんからトラックバックが返ってきたんだけど。
出たよ!リベラルお約束の「対案を出せ」論法!アレですか、「資本主義がイヤなら、それに対抗する提案を述べよ」ってことですか。社会主義も共産主義も失敗して、実質資本制に対するオルタナティブなどないのだから、それに対する批判もまた空虚である、と。いやはや、完璧にテンプレ通りの「資本家」の恫喝ではありませんか。この人は私が前回のエントリーの最後で、他ならぬジジェクによる「エリートの嘲笑的なあてこすりを拒絶せよ」という発言を引用していたことを読んでないのでしょうか。まあ真面目な話、読まずにこのエントリーを書いたのだとしても驚くには値しませんけど。何ならもう一回引用しましょうか? ・flapjackのbookmarks - スラヴォイ・ジジェク on 欧州憲法否決
あのですね、私もジジェクも「資本制に対抗する」「具体的な」提案の話なんて、貴方の言うとおり一言も述べていないし、そんなものを言いたいと思って書いているのでもないのですよ。そうじゃあなく、私もあの本のジジェク(とは言っても、ジジェクの真意は私にも図りかねるところがありますが)も、言いたいのは原理・原則の話であって、まさしく、もはや「政治的イデオロギー」など存在せず、「只管前進する資本主義」と、その箱庭に住まう「動物化した人間」、さらにそれを管理する「環境管理型権力」に全てが規定されていくとする、貴方や東浩紀のような「リベラルエリート」の世界観に、はっきりと「NO」を突きつけなくてはいけない、「政治的イデオロギー」はまだ死んでいない、という「原理」を述べているんです。
ちなみに以上の文章は、「人権と国家」の冒頭、12から15ページに書かれている内容を抜粋したものである。まあ、ここで批判されている「社会運動家」や「慈善家」などとは違って、小飼氏は具体的な「慈善事業」さえ行なわないままに、資本制の問題は資本制の発達によって全て解決できるなどと言っているわけだから、余計に程度が低いわけだが。 要するに、思想の左右問わず、現代の「リベラルな」グローバル資本主義に何らかの形で対抗していこう、と思ったのなら、その「実践」がそれに取り込まれるような形のものであってはならない、ということだ(日本の能天気な「サヨク」には未だにそれを理解しない人が多いが)。そうではなく、人々の世界に対する認知地図を書き換え、「政治」の理論化を推し進めるようなものでなければならない。そうしなくては、何一つとして根本的な「問題の解決」の役には立たないということなのだ。
小飼氏の言う「誠実さ」とやらが、単に既存の資本主義イデオロギーに与するだけのことを言っているなら、ジジェクにせよラカンにせよデリダにせよサイードにせよ、彼らは全く「誠実さ」のないセンセイ達だと言えるだろうし、むしろそれを誇りに思うことが出来るだろうね。しかしさあ、仮にも(私の書き様があまりに未熟で下手だったとはいえ)自分の依拠する「リベラル資本主義」そのものに対する疑義を示した文章に対して、「こうしたものならば良い」として提示するのが、「動物的消費行動」を奨励する「美少女ゲーム」に耽溺する男の姿、ですか。なんというか、惚けてるのでなければケンカ売ってると解釈してもいいんでしょうかね。まあ小飼さんに言われるまでもなく、私は自身の「政治性」に賭けて、「誠実でない」態度をこれからもとっていきたいと思いますけど。なんか強引に話を終わらせようとしてるようにも見える書き様なのだが、俺は「じゃあね」なんて言わないぜ!「またね」って言うぜ!フルボッコにしてやんよー!!!! というわけで、元祖「アニメ美少女」であるナウシカの漫画版での名台詞を引用して〆にしておきます。宮崎駿も、昔に比べれば「アカを脱して」「丸くなった」と言われてますけども、彼が「皆オタクになろう!「電波男」最高!」などと言い出したら、世のアニメファンは全員発狂死するのではないでしょうか。いや私は彼のアニメにはさしたる思い入れもないんですけどね。
※以下追記
多数のブックマークなど、ありがとうございます。本稿の補足(と言ってしまうのは失礼かも知れませんが)になりそうな文章がいろいろあったので、ご紹介します。 ・flurryのとこ。 - ジャック・バウアーと緊急時の倫理 ・flurryのとこ。 - 略奪や強姦を行っていると想定される誰か――ニューオーリンズにおける現実とファンタジー ・flurryのとこ。 - Slavoj Zizek ”You May!” flurryさんによるジジェクのエッセイの翻訳です。二番目の文章は「人権と国家」に掲載の試論の元ネタ、三番目は精神分析学的な内容です。どれも興味深いので、皆さん読みましょう。 ・これが我らの怨敵よ - アケガタ ・坂のある非風景 20060416 希望の思想 私が本エントリーを書く上で念頭にあった、それぞれTezさんとfreezingさんによるジジェク評です。freezingさんの「ジジェク・ノート」シリーズはとても良いので、皆さん読みましょう。 ・ナウシカあるいは旅するユートピア ――ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿―― hokusyuさんのご紹介で知った、明治学院大教授稲葉振一郎さんによる「ナウシカ」評です。ナウシカを通してユートピア批評について論じられています。 ・東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ ・東浩紀の渦状言論: シンポに向けてのメモ2 ・論座三月号の東浩紀・森暢平対談について - 研幾堂の日記 本エントリーでは、批評家の東浩紀氏への批判を(割と唐突な形で)行なってしまいましたが、その際念頭にあったのが上記の文章です。いずれにも、現代の日本型リベラルの問題点が象徴的に現れているように思います。 サブカル批評家としての東氏は、実は割と積極的に好きだったりするんですが(いわゆる「社会学的な読み」への正面切った批判とか、率直に素晴らしいと思う)、社会学者としての彼はむしろ、「文芸」的視点から社会を語ることの限界を色々な面で見せてしまっているように思います。 最後に、こちらのreponさんのブックマークコメントについて。
「手前でためらうこと」が確かに重要なのはわかるのですが、むしろそうした「ためらい」の作法が、リベラル相対主義者的な「ためらうこと自体の傲慢さ」を形成してしまう嫌いはないでしょうか(以前に某フロムダ氏が示していたのも、まさにそうした類の傲慢さでしょう)。ジジェクは「引きこもり的な大学教授」に対するリベラル派の脅迫を批判しますが、だからと言って「象牙の塔に引きこもる」事が許される訳ではありません(だからこそジジェクは積極的に発言している)。 かと言って、「手前でためらう」こと一切抜きの態度は、まさに原理主義的な「マッチョ」や「テロリズム」にしか帰着しません。まあそれでいい人はそれでいいのでしょうけど、そんなアホっぽいのは嫌だ、というのならば、恐らく必要になるのは「ためらいながら決断する」ようなアクロバットに自らをコミットすることなのでしょう。それについて迷い、考えながらも「断言」するような態度です。 言うなれば、ムッソリーニの発言として外山恒一氏が引用している「(政治的立場さえ)時と場所と状況に応じて」「思いのままに使い分ける」ような態度でしょうか。昨日リベラルでも、明日はネット右翼になってしまってもいいのです。「風見鶏」とは違う形でそうした「無茶」を実行した時、初めて有益な何かが実現するのではないかなあ、と。極めて難しいことではありますが…。 |
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