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2008-07-20 Sun 00:00
忙しくてすっかり書く機会を逸してしまっていたのだが。
■ ・問うことにタブーを設けてはならない。 - z0racの日記 さて、ネット上での議論は公開される故、それを当事者が見ることもある。極端な話、どのような問いであろうと、それを快く思わない人は存在すると仮定すべきだろう。ならば、当事者に配慮し過ぎると議論全般を禁ずることになる。 ・http://anond.hatelabo.jp/20080706112744 匿名ダイアリー書いたのは初めてなのですが、書こうと思ったのは2つ理由がありまして。 前回のエントリーでも書いたことだが、ニコ動のアレは映し出す人間を強制的に消費の対象にしてしまう性質を持ったものであって、そこに対象の主体性を考慮する視点はないと思うし、再三述べてきたようにニコニコ大会議で行われたこと自体はどう見てもいじめでありファッショであると思う。 しかし、それでも多くの人間から「当事者」と名指されたおじさんは、「これをきっかけにニコニコ動画を批判しないでほしい」と要求したということを、ニコニコ大会議の批判者は忘れるべきではないのではないか。システムによって人間が主体性を剥奪されていく過程を批判するために、誰かの主体を無視することが許されるのならば、結局はファシズムに対してスターリニズムを持ち出しているのと大差ないということにもなろう。 事件から半月程が経過して、今このおじさんが何をしているのかは私には計り知れないが、あの大会議に関する一連の議論を、単なるありがちなネタ的消費ではないと主張するのなら、我々に出来ることはあの大会議を批判しつつ、彼の無事のために祈ることなのではないか。赤の他人の自分にそんなことをする資格があるのかどうかはわからないし、それ自体随分と欺瞞的な行為であるのかもしれないのだけど、人間から個別性を収奪していくシステムを批判するときに、誰か一人の意思をネグレクトして「無かった」ことにするのは、やはり許されていいことではないと思う。 ・2008-06-03 - 七里の鼻の小皺 - 「実効力」という罠を、つねに代価としてこそ詩である――少年マンガ論 『ONE PIECE』を読んで泣くときの、涙を相対化することが、もちろん批評の入り口ではある(最近は、それ以前の共感の共同体を個別に代表する「職業批評家」が多すぎるようだが)。そして、言うまでもなくわれわれが問題としているのは、その入り口をとおりながらも、「相対化された涙」を再度本当に泣くことだけなのだ。 ■ その上で。 今回の件でのおじさんの一連の意見を読んでいると、何故か先月秋葉原で事件を起こした加藤智大のことを思い出した。自分でも何故この文章を読んで加藤のことを思い出したのかさっぱりわからないでいたのだが、以下の加藤の日記を読んでいたらなんとなく疑問が氷解した。 ・2008年6月8日に秋葉原で発生した通り魔事件 まとめwiki - 掲示板の書き込み6月3日 [2096] 加藤はこの他にも似たような発言を様々な場所で書き込んでいたと報道されているが、ここにあるのは社会的弱者にありがちなルサンチマン以外に、他者を徹底して手段視する視線の有り様だろう。加藤にとっては自分も他人も消費財のようなものであり、金やルックスが劣った人間は自分を含めて無価値と考えていた。彼がルックスを気にしていたのは単に女性に相手にされないからというよりも、イケメンでなければ「消費」の対象にされないことを知っていたからだろう。不細工でも愛を得ることは出来るが、モノとして誰かの商品になることは出来ない。それこそ、おじさんを含む一部のニコ厨のように「お笑い担当」にならない限りは。 別にサヨクっぽく消費社会の弊害を語りたいわけでは無いのだが、現代には彼のように、(往々にして主体や実存を無視した)「消費」する・されることによってしか快楽を得ることが出来ない人間が大勢いて、そういう人々のニーズの上にニコニコ動画的なものが存在しているということなのだろう。これはサブカルチャーなんかが好きな私にも全く他人事ではないし、日本に住む人間のほとんどはこの陥穽から逃れられないと思うが、中でも極端にそうした性向を発揮してしまう人間が社会の中に存在しているということだ。 加藤が犯行を起こしたのは、マスコミやここのようなブログで事件が取り上げられることで、自分が「話題の殺人鬼」として消費されることも狙いにあったとどこかで聞いた。彼がもしニコニコ動画やはてなダイアリーのユーザーであったなら、満足を得て殺人鬼になることを止めたのだろうか。 ・坂のある非風景 ニーチェの復讐 社会的な発言のなかでかき消されてしまうもの、意志と情熱のその人固有の身体は、知の遠近法的構図の中に遠ざけられ、場所を与えられ、無力化されている。そうした詩の否定が社会科学自身の浅薄さを作り出す。浅薄であるという理由で、誰もがやすやすと流れ込んでゆく。これが現在の社会政治思想の制覇の構図である。 ふと、今ははてなダイアリーを退会してしまった「kiya2014」というブロガーが、「非モテ」について語る中で「僕は商品になりたい」としきりに言っていたことを思い出す。彼は加藤の事件について何を思っているだろうか。 ■ 私は前回、ニコニコ動画についての規制論をぶち上げたが、やはりこうしたシステムに対抗するには、それ自体極めてシステマティックな「規制」によってではなく、他人を消費物扱いしないような態度をもってするほか無いのかもしれない(他者を手段視することが回避し得ないならば、ここでこそカントの普遍道徳「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」が思い出されるべきだろう)。それを詩と呼べるかどうかは私にはわからないが、突き詰められたそれは一つの愛とは呼びうるのではないかと思う。醜悪で機械的なシステムに立ち向かうのが、人間に残されたちっぽけな愛だというのは、いささか感傷的に過ぎるか? いつも周りで罵られ 無理と分かってて振り下ろした手 ニコニコ動画で活躍するアーティスト、「らっぷびと」のファーストアルバムは来月発売する。普段はフリーターだという彼の夢は、「マイク一本で食っていけるようになること」だという。 明日にでも彼の夢が叶えばいいと私は祈る。 |
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